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2014/10/07

posted Oct 13, 2014, 7:11 PM by Akihiko Shirai
今回の講義で学んだこと
人それぞれの考えが、多種多様聞けて面白く感じた。
が、人それぞれとしか思えず、どちらが正しいとはいえないと思った。
これらのことから、人に感情についての事を認めさせることは難しいことだと学ぶことができた。
自分たちは、ディスカッション能力がまだまだ未熟なのだと分かった。
定義などと言った揚げ足取りを進めるとディベートにならない。
美を感じる能力と描くスキルは連続しているが同一ではない。

アートとは自由なものである。
であるならば、最高のアートはコミケである。
人と人との関係性を作り出す場として、日本の最高のアートだということを学んだ。
メディアアートは人と人との関係性を作り出すアートということ。
今までアートや美とは理屈では語れなく実際のものを見てどう思ったかで判断するものと思っていたが、ディベートを通してアートの理屈が少し理解できた。
アートによって「人と人との関係性」を創り出すことを知った。
議論することにより様々な考えに触れ、表象の意味を知れた。
能力の連続性も知ることができた。
美しいものとは何なのか、それをディスカッションすることで、スキルや考え方が見えてきて、良い教養になりました。
ディベートでは「後の先」、カウンターを仕込むことが適切なのだと感じた。
「先の先」を提示することが出来れば強みになるのではないか?とも感じる。
人と人との関係性をあらわにするには良い方法でもあるし、自分が考えもしなたったカウンターを喰らい、それを頭で再構築し反論できるように準備するのがとてもたのしかった。
ディベートで思考停止は負ける。
今回のディスカッションは、その人が書いた絵のスキルを話し合うものではないと気づかされた。今回はその人がアニメータになった過程を書かれていたのでその部分を強調されて言われていたのでとても反論が聞きにくかったと思いました。感情の問題だと思いますけれど。
美と感じる能力と描くスキルは連続しているがつながっていることを学びました。
確かに美を感じることが出来なければそもそも他の人が美しいと感じるものを描けるはずがありませんから。
ディスカッションは別の授業でよくやっているので、自身の「ドキュメンタリーが作品に影響を及ぼさないのではないか」が墓穴になってしまうとは・・・
私が他人と違うということにまだまだ気づけていないと感じました。ディスカッション含めてまだまだ成長するべきだと感じます。
今回のディベートのテーマーは人個人個人では何も生まれずただyesかnoか結論づけるだけだったが、人と人とが関係することによって同じ立場でもいろいろな意見が生まれ
二つの立場がぶつかる話し合いが生まれるのだなということを学びました
ディスカッションにおいて自分の感情にまかせて意見を言って
否定していくだけじゃ成り立たない。論点もだんだんとずれていったので
議論する定義を初めにはっきりさせておく必要があったこと。
問題の捉え方によって意見が変わるのがとても難しいところだと感じました
 「美しい」とは何かをめぐるディベートを行うことによって、「美しい」を感じる個人差と曖昧さを実感することができた。
 このディベートの結果をもとにアートとは自由なものであり、何かに固執するものではないことがわかった。
多くの知識を持っていて損は無い。多く持つことにより有利になること。
相手が言う事を先に予測しておく。
美しい絵に美しい経歴が含まれていることでさらに民衆に美しいと評価されやすくなる。メディアアートが人と人との関係性で成り立っていることがわかった
今回の講義は、「人と人との関係性を創り出すアートとして考える」ということでディペート大会を行いました。人を説得する、論破することの難しさを実感しました。戦略的に考えられるように思考していきたいです
ディベートを行う際に、議題に対してどれくらい多くの視点でとらえることができるのかがカギになると感じた。アバウトな議題ほど、多くの視点でとらえて考えることができる。今回はもっと、先入観や思い込みを捨てることができれば、より気の利いたことが言えただろうとほかの人の意見を聞いていて後悔した。あとは、知識量が多いと有利になるのではないか?反論する際に、具体的な例をたくさん述べると、自分の発言により大きな信頼性を持たせることができる。
結構、ディベートの中で論点がずれてしまうことが多かったので、発言する際には相手の論点のずれとか、仇を見つけて発言すると中立派に説得力のある発言ができるのではないかと思った。
また、まず議題が定義されたところできちんとその名義について確認することが大事かと思った。
ひとつの主題だけでは明確な答えはだせない。そこに補足される様々な背景や過程で評価が変わり答えが出せる。作品を表象したものはスキルの有無によってより良くなったり悪くなったりする。人と人との関係性を創り出すアートがメディアアートというもの。
 ディベートで感情論に走る人がいてちょっとひやっとしました。
 私は美しい絵を表象させることは出来ても、それを描くスキルがないので、それを身につけたいと思ったのが、大学に入った理由の一つなので、今回の話は心にくるものがありました。
 絵は絵単体だけで評価したいという気持ちはありますが、描いた人の思いを知ってしまえば、そこに作用するのは人として抗えないかと思います。
 人と人との関係性を作り出すこともアートとして考えるのは素敵だなと思います。
 「美しい」とは何か?という定義で講義をしていて、美しいのは、その絵なのかその人物の背景も考慮するのかという点も美しいと思える要因になることがわかりました。美を感じて、表象を作成するのは描くスキルが関係していて、絵だけを見て意見を述べることは、描くスキルに対して美しいかどうかを決めていることにつながる。
賛成派の意見の中で「そこまでの過程を経て作ったものが美しいくないと思うのか?」という意見が出たが、その絵を見る人全員がそのサクセスストーリーを知っているわけではないのでその意見は見当違いではとおもいました
今回の講義で印象に残ったことは、どのような過程で、どのような人が作品を作ったかによって、作品の見え方が変わるということです。特に、なぜ新しいジブリの映画が出ると、その前に金曜ロードショーなどで過去のジブリ作品を放送するか、ということです。その作品がどのように作られたか、どのような人が作ったか、という過程を見る人に好印象を与えるように作ることで、新しいジブリ作品がよりよく見えるというです。作品を作る上で、意図的に人と人との関係性を築く、ということがとても重要なことだと学びました。
 テレビ局のある意味で戦略が解りました。トトロの森の絵を見て感動した人は、あらかじめ絵を描く大変さを実感したうえで感動したのだと、今なら思えます。
 ディスカッションでは先生が「墓穴を掘った」と指摘するところは、自分も同じ考でした。その場の反論でなかなか全体を見られなかった。
 アートだけでなくディスカッションでも流れを感じる能力とスキルが必要だと思いました。
個人個人の価値観の判断が伴い、出されたお題に対してどういった視点で考え、把握して考えることが大切である。美しさを創り出すには美しさを感じ取る能力と描くことの出来るスキルの2つが重要である。感情論が含まれてしまうとさらに違った視点に転がってしまい、本来出されたお題よりほど遠い結論となってしまう。
ディベートするにおいて、どれだけの材料を用意しておけるか、相手の意見に対してその意見に沿いつつ反論できるかという難しさを感じた。
また、意見を用意するときに重要なのが、質問の趣旨をしっかりと理解し、どこまで食い下がって自問自答しながら突き詰めていかないといけないということが分かった。
討論の場では、自分の主張だけ言うだけでは話が進まないということと同時に相手の返してきた意見に対してどれだけ瞬時に理解できるかという点も重要であると感じた。
今回の場合、正解がない質問なため、論破するにはどれだけ相手の主張する内容にたいして揚げ足を取れるかというのも必要であると感じた。
今回の講義の中で、ディベートでは私は反対派でした。それは、実際にその森を見ていないから分からないということが一番であり、あまりその人自身の絵を描くにいたった過程を考えていなかったためです。最終的に、その過程も含めて重要であり、このメディアアートの講義では、メディアアートは人と人との関係性を創り出すアートだと学びました。
トトロの森に感動した人が描いた森は美しいかというディベートを行った。人と人との関係性からの美しさや純粋な美しさのありかたなどを考えなおすきっかけとなる講義だった。
メディアアートの主題を再確認できた。
メディアアートとは人と人との関係性を生み出すものである。
今回のディベートではNo派だったが、お互いに反論されそうな意見ばかりだったように感じる。人数が多かった分、皆の意見をまとめるのも難しかったし、時間が足りないように感じた。
美しいか美しくないかは人それぞれで,それに対して議論を交わしても答えはでない.美しいとはなんなのかということがしっかりと定義することができないものなので,それに対して考えることは出来ても答えを求めることはできない.自分が美しいと感じればそれは美しいということでいい.見た人は,その人の描く過程まで考慮して考える性質がある.結果だけでなく,過程も1つのものとしてみるかどうかで美しいかどうかが変わるということは,そこには絵を見て感じた美しいという感情だけでなく,他の感情も入ってしまうことが多い.描く人と見る人の間で成り立つものなので,さまざまな意見が出る.
美を感じ取る際には、他者を介入することなく、対象物と自分のみで感覚的に対話することが望ましいと思った。また、アートは自由なものであるのだから、生み出す方だけでなく、それを見て感じ取る方の受け取り方も自由なはずである。しかし、その自由であるという権利を謳うには、まず自分にとっての美を表象することができ、他者に伝えられるだけのスキルが求められるということが分かった。美を語る世界では受身だけでなく、自分の中での美のあり方を認識し、それを表象することが求められるのだと思った。
メディアアートとは人と人との関係性

メディアアートにとってトトロの森は美しいか、美しくないか
人と人との関係性を作り出すものがアート
人に何らかの感情を起こさせる。例えば、楽しいとか美しいなとか、そしてそれを周りに伝えたい、共有したいと感じたらそれは、アートというものになることが分かった。その共有によって人と人との関係性が生まれてくるのではないかと感じた。
また、美を感じる能力と描くスキルは連続しているが同一ではないということから、言葉の意味をしっかり理解して考えないといけないことを学んだ。
感じているもの、考えているものをメディアに起こすことを表象ということを学んだ。
 ディスカッションをする時には何に対して「美しい」かどうかを定義する必要がある。今回の授業では、その人物に対してなのか、それとも人物が描いた森に対してなのかを決めなければならない。
 それでも「美しい」と感じるのは個人の感性であり、トトロの森の模倣であっても、二次創作や表象であっても美しく感じる森を描くことは出来る。
 今回の講義では「人と人との関係性」を作り出すメディアアートで、生徒でディスカッションを行う。
今回は「トトロの森は美しいか」という題で討論を行った。
劣化や複製などではなく、自分の頭にある光景を表したもののため、それを他人が「美しい」と感じるかは千差万別だと思いました。
美を感じる能力と描くスキルは連続しているが同一ではないとのことと先生に最後の方に言われたとき、実際に美を感じるのは、個々の感性であり、描くスキルが無くとも他人によって美の感じ方が違うので、人全員がもっているものだと思いました。
トトロの森は美しいかということで様々な意見がありましたが、一人の人間がどう行動したのか、それを考えることで様々な意見ができ、YES派とNO派というように分かれることで、両者の主張を踏まえた新たな疑問や発見などが生まれるということが学べました。
自分が出した主張について、相手がどのようなカウンターをしてくるか予想した上で話す。
狙ったとおりのカウンターが来たら用意した答えですぐ攻める。墓穴を掘ったら攻める。
私は最後まで中立で最後に美しいと思う側に票をいれたのですが、感情が伴った議題を討論するのはかなり難しいことだと思いました。最も苦戦したであろう『人それぞれ』という壁を自分では壊せず、中立が一番正しいと思っていたのですが、討論を聴くうちに正しいか正しくないかは置いておいて、どう正当性を持たせていくかが面白く、どちらも的を射てどちらも欠けていたので、最後にどう終わるかで決めるつもりだったのですが、YES側の『誰が』が重要でただのアニメーターではない。『その人』の事を考慮すべき。という言葉がかなり最もらしく感じたので、YES側に票を入れました。人それぞれは確かだと思いますが、そこからどう人の感情を動かせるかも大事だと思いました。
今回のディスカッションでは賛成派に居ました。輪の中に入り、意見を聞いていくと同じ賛成派でも自分の意見と違うものが多々あり、興味深いものがありました。また、否定派からどのような意見や反論があるのかも知ることができました。中立による意見は議題について不明瞭であるところに疑問を持っている印象を受けました。前年度の内容で参考になった点もありました。
今回の授業の場合「君にとってこの絵は美しいか」のように、見る人が指定されておらずどのようにも受け取ることができる内容だったので、それを意識しながらどのように討論を進めるべきかなどが今回の授業でとても参考になった。
また、討論している時は気付かなかったが終わった後の先生解説を聞くといろいろ意見に穴があったり相手の意見を論破できる機会があったりと、いろいろ考えているつもりでも実際は詰めが甘いところが多かったので次の討論の機会があったらそのようところも落ち着いて考え今回の授業で学んだことを活かし意見をしていきたい。
まず美しさの定義がはっきりしておらず、漠然とした個々人のスキルや感受性もとに考えていたので議題と少し離れてしまった。最後に先生からのまとめでディベートの内容がよくわかり表象や美しさといった物を改めて考え直せました。こうした意見の違いや新たな発見によって今回のように人と人との関係性を築くメディアアートについてもっと学びたいと思いました。
トトロの森を題材に、トトロの森は美しいか、美しくないかを、メディアアートとして考えて議論した。
今回、ディベートを行ってみて、まず議題に沿うことが大事だと思いました。
私は、YES側だったのですが、ディベートを見ながら、NO側が「その作品が美しいかそうでないか」としか、考えることが出来てなく、今回の議題ではその作品が美しいかそうでないか、だけで議論を交わすべきなのではない、と思っていたからです。
また、最後、中立の人たちが、YESに動いたのを見て、私は理由の一因として、NOの人が「ずるい」「関係ない」と言ってしまったがあると思います。
というのも、ディベートは、相手の痛いところを突いたり、裏をかいたり、さらには情に訴えかけるのも手の一つだと思うからです。
今回このトトロの森、ディベートをやってみてとても興味深いと思いました。
自分ではディベートは反対派と賛成派の人たちが口論し、最終的には賛成か反対かを決めることだと思っていたが、今回の講義を受けて、反対派、賛成派の人たちをどれだけ納得させられるかをディベートを通じて求めているんだと思いました。こういうことから人と人との関係性を創り出しているのだと思いました。
 となりのトトロを観て感動した人が努力の後スタジオジブリにアニメーターとして働いている。この人が描いた森は美しいか。という議題でディベートした。
 「所詮描かれた作品は模倣品(表象)でしかない」「作品が美しいのか、その人が美しいのか不明瞭」などの議論ののち、「ドキュメンタリーとしての意味でも美しい」という決着に至った。
 しかし私は依然この人が描いた森を美しいとは思わない。
 この人がジブリ作品の森を美しいと思ってスタジオジブリに志望したのであればより技術レベルの高いもののけ姫の森について話題にしないのはおかしいし、そもそも本当に人に美しいと思ってもらえる森が描けるのであればアニメーターではなく背景美術のスタッフとして就職するはずである。そうなっていないということはこの人は”スタジオジブリの求める、人に美しいと思わせる森が描けるレベルの技術”を持っていないということになる。美しいと思う側の主張の通り、美しいという感覚が共有されるものだとしよう。美しいかどうかの感性を持っている採用側の人間が”特別美しいとは思わない”という判断を下した人の描いた森は美しいだろうか。全く美しくないとは言わなくても、「上手だね」止まりで心から「美しい」と呼べるものではないはずである。仮に美しいと感じたしても、それはディベートの流れで出た「ドキュメンタリーに感動した」だけであり「美的感覚が揺さぶられた」とは違うのではないだろうか。
 先生による補足で美しいと「感じる」ことができる人皆が美しい物を「生み出せる」わけではない。美しいという感覚は生み出された物にだけ抱くべきものなのかという話題が出たが、私はむしろ人に美しいと思わせたい・美しさを表現したいのであればそれ相応の技術を身に付けるなり、そのための努力をするべきで、技術を持っていない・足りないことを逃げる理由にするべきではないのではないかと思う。
今回のディスカッションを通じて、アートというものは自由であるということ、人と人との関係性を作り出すアートがメディアアートであるということを学んだ。
まだ議論の際に自分たちがいいと思った考え方も、相手に論破されかねないので一つの意見もいろんな方向から見ていくことが大切だと感じた。
最初はシンプルに、自分が美しいと思うのならば美しくて、美しくないと思うのならそれは美しくないでいいと思っていました。各々の美しいの定義は必ずしも一致するとは限らないのに、議論することに意味があるのかわからなかったからです。しかし、両方の意見を聞いているうちに、心の中で反論していたり賛成している自分がいました。メディアアートが人と人との関係性から成り立つ、というのはこういうことなのだろうなと実感した瞬間でした。自分の中だけで完結していたうすっぺらな意見が、人と関係性を持って摩擦を繰り返すだけで魅力的で厚みのあるものになった気がしたからです。結局「美しい」という言葉の定義がそれぞれあるのも、アートが自由なものであるからで、今回のディベートは「自由」がテーマだったのではないかと考えています。
 今回の授業では「ととろの森は美しいか」というテーマでディスカッションを行った。私は中立の立場であったため、Yes側とNo側の主張をよく聞き、それを元に自分の考えを決断することにした。様々な角度から議論が進められ、最終的に私はYes側の主張に賛同した。その理由はNo側はあくまでYes側の主張を反対しているだけであって、No側としての主張が少なかったからだ。今回このようなディスカッションを行なう中で、「ととろの森は美しいか」というテーマに不確定で抽象的な要因が加わることで、議論は思わぬ方向に深みをみせることを学べた。また白井先生の解説の中で表象という言葉を初めて知ることが出来たり、絵を美しいと感じる能力と絵を描く能力は別物であるがお互い作用しあっていると言う興味深い話を聞くことができたり、今回の授業で学べたことはとても有意義であった。
今回の授業では、まず、初めに共通の認識を作っておけば良かったなと思いました。私は初めに、中立の立場に居ました。その結果NOにしたので、初めに美しいというものがどのようなものなのかなど考えておけば良かったと思いました。それと私自身が問題の意味を勘違いしていた部分もあったと思います。それと、自分の考えの足らないと感じました。人と人との繋がりなども今考えて見れば美しさの一部分だと思い始めました。
今回の授業で学んだことは「美しさ」とは何か深く考えることができました。一言に「美しさ」といってもその定義は人により異なり、また共通の部分もあるということです。今回のディベートではその定義が曖昧だったため、NOとYESでの「美しさ」の定義が違うと感じました。自分はYES派だったのですが、最初に「美しさ」の定義を明確にしていればNO派の「楽しい」「共感」などを感じている人たちをYES側に引き込めたのかもしれません。
私はディベートの開始時点で(どちらかと言えば)賛成派に所属していた。
ただ賛成派の主張がどこか弱く感じてしまい、休憩を挟んで中立へと移った。
最終的に賛成の方へと票を入れたのだが、賛成派の主張が良かったというよりも否定派の主張に同意できなかったという面が強い。
特に実物からアニメはいいが、アニメからアニメは模倣(表象)であり美しくないという主張が気になった。
メディア科である以上大半の人間が所謂二次元、萌アニメに興味を持っているのだと思う。
だが良くも悪くも二次元キャラクターは顔の構造などの点で実物の人間とはとても言えない。
また中には他のアニメで見たことのあるような模倣的なキャラクターしか出てこないアニメも存在する。
とすれば同じメディア科の人が私たちの好きな日本のアニメを美しくないものだと否定しているように思えて違和感を拭えなかった。
しかしアニメとは実写ではないのだから、作者が感じた心象なども含めて、良い意味で実物とは異なるような描き方があってもいいのではないか。
否定派が言っていたように「美しい」の基準を提示しなかったという問題もあるが、二次元キャラクターの実物とは異なる可愛らしさやかっこよさに私たちが惹かれるということは、そこに「美しさ」があるからではないか。
このことは今回の主題とは全く関係のないもので、ただの個人的な考えと思ったため発言しなかったが。
私は正直言って両者の主張に頷けるものはなかったと思う。
しかし賛成か反対かの二択しかない状況で、意見ひとつによって他方を納得できないというと感じてしまうともう一方が比較的自分の意見に近いのではないかと結果的に思い込んでしまう。
ディベートの際は理論付けて話さなければ、納得出来ず墓穴を掘る危険性もあると学んだ。
今回の講義では、「美しさ」の定義がされてない中で、各々が「美しさ」についてどのような感性で定義づけし、例題に対しての議論を行いました。例題は「となりのトトロ」の森をみて感動したある人物が、凄まじい努力を重ね、スタジオジブリに入社しました。君はその人が描いた森は美しいと思うか?
自分が真っ先に浮かんでしまったのは「皆が美しいと感じるのは皆それぞれの個人の感性による」というものでしたが、議論を行ううえではその言葉はNGであると即座に思いました。
自分は始め中立の立場でYes派とNo派の考えや意見を聞いていました。その時点でYes派は勝ちにこだわっているためか、Yes派の中で議論を始め、No派は意見に対してYes派に対抗するための会議を行っていたので、No派の方が統一感を感じたのでそちらに着きました。
今回の議論は決着という形では収まりませんでしたが、多くの考えや意見を聞くことができました。その中で学んだことは、まず、人の美しいと感じる能力と美しいものを同レベル、またはより高度なものに創作できる能力は関連性はあるものの同一ではない。ということがまず一つに挙げられます。
例え、ある作品に感動した、何度も何度も見たとしても、それを実際に同レベルにまで創り上げるスキルは伴わない。という事が分かりました。
次に、講義の中で「表象」という言葉が出てきました。ある対象を自らのスキルを用いて対象と似たように表現したものを指す言葉ですが、それも今回、美しいものか、美しくないものかで議論になりました。
そして、議論の後半に差し掛かり、今度は創作したクリエイターの人物背景や心情を取り入れられた見解が出てきました。Yes派は制作者のドキュメンタリー性を加味して、美しいものだと論じ、No派は制作者の描いた森に大しての議論なのに、ドキュメンタリー性を加味するのはお門違いであると主張した。
そもそもその人物が描いた絵を見てもいないのに、どこからそのような主張が生まれてくるのか、疑問でなりませんでした。しかし、実際に森を描いた人物を目の前にして議論を行ったら、きっと美しいと言ってしまうかもしれないです。ドキュメンタリー、あるいは他のメディアによって美しさの感じ方が変わってくるのかもしれない。というのも今回学びました。
メディアアートは人と人の関係性を創り出すアートと先生がおっしゃっていました。こういう議論もアートの一つということなのでしょうか?自分にはまだ理解できない部分がありますが、この講義を通して少しでも理解を深められるようにしたいです。
ある人が「となりのトトロ」のトトロの森をみて感動し、一生懸命努力してジブリに入った。君がその人が描いたトトロの森をみて美しいと思うか?というテーマを元にディベートを行った。
YES派とNO派のそれぞれの主張があり、その中から人と人との関係性について学んだ。
また、いかに人を説得できる主張なのかや、いかに墓穴をほらないで主張できるかを学んだ。
「美しい」とは、作品に対する技術的面から見た「美しい」という評価だけでなく、その作者から生まれた作品であるということ、作品を見る相手に対し、感情を生ませることなのだ、と解釈した。この「美しい」ということが「人と人との関係性」を造り出し、作品にとって重要なものであると学んだ。
今回の講義で、自分だけではなく色々な人がいて、そして皆それぞれの意見を持っているのだなと思いました。自分だけでなく他の人のことも考えることはディベートでもそうですが、その他の人間関係においても大切なのだと改めて思いました。『人と人との関係性』ということがアートにおいても大切なのだということが今回の講義でわかった気がしました。
トトロの森を見て感動した人が、一生懸命努力してスタジオジブリのアニメーターとして働いている。この人の描くトトロの森を君は美しいと思うか?という題で討論した。
この討論を通して学んだことをあげる。美しい能力を持っていない人に美しい絵は描けないが、美しい能力を持っている人が必ずしも美しい絵を描けるわけでわない。美しい能力と技術は連続的であること。本物でないものが必ずしも美しくないとは言い切れないこと。表象という言葉。今回のお題は文章にドキュメンタリーを含んでいるので我々はその人が努力をしていることを知っていることが前提となるため、論点はその人の作品とのものだけでなくドキュメンタリーを含めたものが美しいと感じるかどうかというところにあること。人はドキュメンタリーを美しいと感じること。
また、この討論に私は美しいと感じるという肯定派で参加した。自身の思考は努力を踏まえて美しいと感じると考えていたが、お題が作品自体が美しいかどうかを問うものと捉えていて、努力を踏まえずに考えた場合に、美しいの捉え方は人それぞれであるため、曖昧な部分を解決できずにいて、否定派に何を言っても押しつけにしかならないと考えていた。このお題では努力していたことを我々が知っていることが前提として考えるというが盲点であった。人それぞれで捉え方が異なることを説明することは難しいが、視野を変えたり広く持ったりすることで、説得力を増したり曖昧なところを明確にできたりするように思えた。
議論する時はまず議論の対象になるものが抽象的ではっきりしていない場合、今回だと何をもって美しいというのかの定義を初めのうちにしておかなければ、議題からそれた議論になってしまう、ということに気をつけなければならないことがわかった。
しかし、議論の方向によっては多少逸れてでも相手に反論をさせにくい意見、今回では「作品を真似て作ったものは全て美しくないと言うのか」というような返しも議論の対決ではとても有効であるということもわかった。
ディベートを通して感じたのは「美しいか」という少ない情報量の中から賛否を見極め、決定するのは難しいということだった。

自分が美しいと思っているものと相手が美しいと思うものは違うため、どうしても相手に伝わらないことがある。それを伝えるためには美しいものをカタチにして相手に見せる必要性があり、このカタチにすることを表象という。
メディアアートとは人と人との関係性を創り出すアートであるとあるが、表象によって自分が美しと思うものを相手に伝えるという行動はまさに人と人とを繋いでいると考えられるため、メディアアートすなわち人と人との関係性を創り出すアートとは表象でもあると言い換えることもできるのではないだろうか。
「となりのトトロ」を見て感動した人が、努力しスタジオジブリのアニメータとして働いている。君はこの人物の書いた森を美しいと思うか?という議題でディベートをした。自分は美しくないという意見であったが、話している間に美しいと思う方に意見が傾いた。理由としては、曖昧な感じで美しくない側で、美しくない側の意見の説得力のなさと、墓穴を掘ってしまったり、美しい側の最後の方では的確な指摘をしていたため意見を変えた。 討論をすることによってそれぞれの主張を言い合い、素直な気持ちで言い合うことで、自分の考えとはまた違った意見を取り入れられるということを学んだ。また人と人との関係を大切にすることで、相手の考えなどを知れるということが学べた。
議論するにはまず議題を理解し、相手に何を訴えかけるかをはっきりさせること。
そもそもアート、美しさとは何か理解すること。
アートというのはアート(作品)だけを評価するものだと思っていましたが、
ディベートでの主題で考えた時、制作者にも美しさが生まれ、作品と制作者が評価されるべきだと感じた。
しかし、今回の主題では、「努力して入社してトトロの森の絵を描いた人の絵は美しいのか?」であるため、人物の評価は関係ないものと考えるべきであり、今回の話し合いの軸がまとまっていないなと感じた。
今後、ディベートの機会がある時は、ある程度の前提は事前に決めておく必要があると学んだ。
万人にウケる素晴らしい作品を作り出すには様々なアートを見て感じ、美を感じる能力を高めることが必要である。
今回のディベートで自分一人では考え付かない意見でも複数人寄って考えることで容易く出る場面を幾つか見れたことで、自分とは異なる意見、立場の人の意見と討論することの重要性を再確認できました。
メディアアートとは人と人との関係性を作り出すアートである。
ディベートでは自分たちのグループが有利にするためにはまずお題の内容を理解することが大切ということ。自分たちの認知の仕方によって有利になったり不利になったりするために理解の仕方が重要だと感じた。
また話し合いに積極的に参加することによってグループ内の意見の密度が上がると感じた。
また勝敗に関係なくディベートが終わったあとに批評会をやることによって自分たちがこの場面でこのことを言ったりすることによって相手の意見を否定できることが第三者目線で見ることによって次に生かせると感じた。
美を感じるスキルと描くスキルは違うということ。見たものを美しく感じても、それを上手に描くことができるわけではない。表象するには見たものを美しいと感じることが必要であり、またそれを描けるだけの技術を得る必要がある。
一つの作品に対して、どのような印象を受けるかは人それぞれであるということが「トトロの森」のディベートを通じて分かった。前年度のディベートと比較して、ディベートの開始時の論点が異なっていたことから、その点を強く感じた。
メディアアートとは、人と人とを繋ぐアートである。
アートとは自由なものであり、本物ではないもの(表象)であったとしても「美しさ」を表現することはできる。また、「楽しい」などのようなプラスの感情は「美しさ」の一種であると考えることができる。美を感じる能力と描くスキルは連続しているが同一ではないため、心がきれいな人が描いた絵であったとしても美しい絵になるとは限らない。この講義においてメディアアートとは「人と人との関係性」を創り出すアートとして考える。
メディアアートはそのものだけでなく、そこにある情報を含めたもの。
討論で説得や自分の考えを伝えるのは難しかった。
今後、就職活動などでも自分の意見を共有することは多いと思うので今回の講義は良い経験になった。
私ははじめ中立の立場にいて、YES側NO側両方の作戦会議を聞いていた。
まず、ターン0でYES側が「美しいと思う。この対象を美しいと思った時点でこれよりも美しいものを必ず描くと思う。」と言ったことに対して疑問(異論)を抱き続けたため、最終的にNOの立場に身をゆだねようとした。しかし、両方の議論のぶつかり合い、その場で出た言葉だけでジャッジとしているのであれば明らかにYES側に点を入れただろう。今回は議論することそのものも私は学んだ。
また私がターン0で感じたことは、もしYES側が述べたことが事実(常識で必ず起こるもの)でないということである。例えば、女優さんを美しいと思ったからといって、自分もメイクをしたとしてもその女優さん以上に美人さんになれるかといったらそうではない(女優さんを美しいと思ったすべての人がそうなるわけではない)、と考えたため、YES側をずっと拒んでしまったのである。模倣が上回る場合もあるかもしれないが、必ずやそうでないと考える。

頑張ったこと(過程)が美しい、と言っていた。しかし、頑張っている間の汗(イメージ)は汚いと思う。なぜそれを美しいと一言で逆転してしまうのかも、人間が美を感じるポイント(能力)が関わっているのだろうと感じ、学んだ。
 まず、今回の「トトロの森は美しいか?」についてのディベートをして、あのような大勢の人数でディベートをすることがなかったので自分と違う視点の色々な意見を聞けて素直に楽しかった。
 ディベートの結果、美しいという結論になったが、「美を感じる能力」と「美しいものを描くスキル」は一緒ではないが、美しいものを描くには「美を感じる能力」もなくてはならない。2つは同一ではないが連続してなければならないのである。
 また、アートとは自由であり、人と人との関係性を創り出すのをアートとして考えることもできる。
先生が美を感じる能力と描くスキルは連続しているが同一ではないと仰ったので、感じる能力は誰にでも持っている感覚であり、描くスキルは興味の持つ人が習得するものだと考えずにいたので二つの能力を二つではなく一つとして考えていたので考え迷走していました。どんなに近い能力でも同一ではないと学びました。
今回の講義にて私はNO側の立場について考えていました。美しいと共感できる感性が人それぞれであるとおもったのが一番の理由となっています。先生がおっしゃるとおりに 美を感じる能力が高ければ見えてくるものは違ったと思いましたが、私は自分の意見を通しました。描くという話題で劣化コピーなどのとの意見が出ていましたが私はそうは思ってはいませんでした。誰もが何かを参考に描いていることが多いと思いますのですべてを否定することになりかねないと思います。
 今回の主文は「この人物の描いた絵を美しいと思うか」であり、そこには、実物がない故の評価が下される。私達は空想上の「描かれた絵」を想像して議論を行った訳だが、そこに確固たる基準はなく、私達は自身が様々な条件付けの元に生み出した「表象した絵」を戦わせた訳だ。
 当然ながら表象は心に思い浮かべられたものであり、それは何人たりとも真に共有することはできない。記号論の話になる為に割愛するが、空の色が「本当の青」なのかを誰も証明できないように。
 しかし「共有できない」と言ってしまうのはとても面白みが無い。表象を、イメージを多くの人と共有するにはたとえば今回の議論のように人と関わっていくことが重要であり、その人と人との関係性から、新たな表象、そしてアートというものは創られる。
映画トトロで登場するトトロの森を見て感動した人が描いたトトロの森は美しいかについての話し合い。私は中立派でした。
yes派、no派の人たちの話を聞いていると、どちらの人たちの言い分も分かりますがやはり肯定することはできませんでした。
今回の講義では、自分の意見や考えをしっかりと持ち、それを相手に伝えるコミュニケーションの重要さを学びました。少しいい方を間違えて、自分の想いを相手にちゃんと伝えることができなかったことで改めてコミュニケーションは難しいが大切だと思いました。
 今回の講義で学んだことは、アートは自由であり、人それぞれの感性によって変わって見える。それによって交わされる議論によって生まれる人との関係性がこの講義でのメディアアートである。
ディベートにおいて微妙な論点のズレから後々フリになってしまう可能性があることを学んだ
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